Artist Self Interview Vol.2 – Embracing the Unforeseen in Stillness

14th July, 2025

まだ言葉になっていないもの、まだ“ステートメント”と呼ぶには早いもの。そんな断片のような感触が、自分のなかにずっと残ってきた気がします。

断片のような感触を、そのまま言葉にしてみたのが、前回のSelf Interview vol.1でした。まだ「ステートメント」と呼ぶには足りない、輪郭の曖昧な記憶や感覚。そうしたものを手探りで並べていくことで、少しずつ見えてくることもあります。

vol.2では、なぜ水面や反射というモチーフに向かうのか、偶然性を受け入れるという態度はどこから来たのかを言葉にしてみようと思います。

「答え」ではありません。ただ、自分でもうまく整理しきれなかった感覚を、一度しっかりと見つめ直すための言葉による試みです。話しながら考え、考えながら言葉を探す、そんな不確かなプロセスをそのまま残しておきたいと思います。

──写真を撮り始めた頃、「移動すればするほど目が開く」という感覚があったとvol.1のSelf Interviewで話をされていましたね。知らない場所に行くことで、光や影や撮影対象物を新鮮に見ることがてきたという、その感覚について伺いたいのですが。

はい。普段生活している東京を離れれば離れるほど、いい写真が撮れる気がしていました。「移動すること自体」が、自分の観察のスイッチを入れる大事な要素だと、その頃は思っていたんです。

東京を離れ、他の県にある象徴的なもの。何か絵になりそうで、自分が撮影対象として興味を持つもの。例えば、森や山、河や海など、自然の中にある「絵になりそうなもの」に惹かれていました。東京の風景を退屈だと感じ、都市での生活から離れること自体を意識していたように思います。海外旅行は久しく行っていませんが、その感覚が続いていたら、最終的には新しい風景を求めて海外まで行っていたかもしれません。きっと、綺麗な写真をたくさん撮影できて、楽しい時間が待っていたと思います。

でも、そうはなりませんでした。スマートフォンやSNSの普及で写真があふれるようになって、「ただ綺麗な写真を撮ること」にだんだん疑問を覚えました。自宅にいるだけで世界中の風景を観ることができる環境がいつの間にか構築されていました。Instagram、Google Mapsが、その象徴ですね。

それと同時に、自分が「移動しなければ撮れない」と思い込んでいたことにも、違和感を持つようになりました。そして、遠くへ行かなくても、自分の足元や周辺に何かがあるんじゃないかと考えるようになりました。それでまずは、意識的に自宅から苦なく歩いて移動できる範囲で物事を観察するようにしたんです。

──それってつまり、「移動しないと目が開かない」という過去のご自身が定めたルールの否定ですよね。「もっと近くで、動かずに見る」ことを選んだというのは、かなり大きな視線の転換だったと思います。

ええ。自宅周辺は東京の23区内にしては自然が豊かで、それと同時に高層ビルも建っている少し不思議なエリアに住んでいたので、観察できるものは意外と多くありました。しばらく続けているうちに、すぐ近所の水路の水面を撮影する事が多くなりました。最初から作品のテーマにしようと思っていたわけではなく、自然とそうなっていった感覚です。

──動かないことで「新しく気づく視線」を模索したのですね。水面というモチーフに自然と向かうようになった経緯を、もう少し教えてください。

意識的に移動距離を制限して身近な風景を観察するようになってから、さまざまなものに目を向けました。近所に大きな水路があるのですが、水こそ澄んでいましたが、川底の砂が黒っぽくて、あまり清らかな印象はありません。何回か撮影は試みましたが、撮影し続けようとは思えませんでした。

当時は野鳥を探しながら撮影をしている時間が長かったです。自然が豊かなせいか、自宅周辺には様々な鳥が生息しています。カワセミ、メジロ、シジュウカラ、ハクセキレイ等の小さな鳥は肉眼でははっきりと捉えることができないので、しっかり観たくて超望遠レンズで追いかけていました。

ある日、野鳥を観察していると、ふと水面に目を落としたら、空がはっきり映っているのを見つけたんです。天気が良くて、青空や白い雲が鏡に写っているように、はっきり水面に写っていたのを覚えています。でもそれはそのままの空じゃなくて、揺らぎや歪みで形が変わっている。その日から明らかに撮影に対するアプローチが変化していきました。

──鳥を探す視線が、足元の水面へ反転したというのは、とても象徴的に感じます。遠くを追うことから、すぐそこに映ってしまったものを見つめる視線への変化とも言えるのではないでしょうか。

遠くのものを捉えようとしていたのが、逆に足元の反射に気を取られるようになった。そこに「見る」という行為の不思議さを感じた気がします。見上げていた空が足元に像として写る。実在する水面を目で捉えつつ、反射して写っている像もみえる。けれどその像は、揺らぎや歪みで変化し続け、手では触れられない。現実と像が交わるその曖昧さを、ずっと見ていたいと思いました。

──それは意図的に「写す」ではなく、自然と「写ってしまう」ものに目を向けること。写真というのは本来「記録」や「再現」を目指すメディアですが、その性質そのものを問い直す行為のようにも感じます。

そうかもしれません。写真は「現実を記録するもの」という考え方が前提にあります。もちろん撮影者の意図がその手前に存在します。現実をそのままをファインダーを覗いて、切り取る行為だけが写真だとは思えなくなってきたのは事実です。現実的なもの、非現実的なもの、相反することが共存している状態を撮影することで、何かが見えてくるかもと、考えました。

自分が意図して作るものというより、そこに「勝手に」現れてしまう像をどう受け止めるか。撮るというより、起こることを受け取って記録する感覚に近いです。

「写ってしまう」ものを受け止めることで、むしろ写真が持つ偶然性や、現実との距離感があらわになる気がします。自分の思い通りにならない像を含めて、どう向き合うか。それが「見る」という行為そのものを考えさせるし、写真というメディアを考え直すきっかけになりました。

──「移動しなくても何かがある」と気づいた先で、水面や反射、揺らぎなどのモチーフや視点が自然に生まれたんですね。初期作品の「Sky」を撮るときは、どんな感覚でしたか?

移動することを一旦中止したことで、普段見えてなかったものが、見えてくる感じがありました。青空や雲というわかりやすい象徴が、揺らぎによって別のもののように変わる様子の面白さ。水面って、ただの鏡ではなくて、揺らいだり歪んだりすることで、いつも少し違う表情を見せます。歪んでいるのに、それが嫌な歪みじゃなく、美しいと感じたんです。自分が移動しなくても、風景が勝手に変わっていく。

自分が何かを操作するのではなく、「すでにそこにある」揺らぎをそのまま見つめるような感覚でした。境界線がはっきり見える訳ではなく「風景と像」が、どちらも同時に在るように感じて。その「曖昧さ」そのものを見つめていた気がします。

──その「曖昧さ」や「境界線が見えないけれど同時に在る感覚」というのは、本物と偽物、実体と反射を2種類に分けるのではなく、どちらも同時に在るものとして見る態度だと思います。多くの人が無意識に分けてしまう二項対立を切らずに、その「あいだ」に留まる視線ですね。

水面に映った像も、その場にある風景も、どちらも確かに「ある」。どちらかを選ぶのではなく、その重なりをそのまま受け止めていた感覚があります。実際の風景も、揺れ動く像も、両方が同時に在る感覚。共存している事実そのものが面白いと感じたんだと思います。

──「歪んでいるのに、嫌な歪みじゃなかった」という話が印象的です。本来はネガティブに捉えられがちな歪みを、美しさとして受け止める。それは、不確かで揺らいだものの中にも秩序や魅力を見出す目を持っているということだと思います。

形が崩れても、それが水の動きとして自然で、美しいと感じたんです。空や雲のような分かりやすい象徴が、水面の揺らぎで変形することで、ただの風景じゃないものになる。「私がこう見たい」と思う前に、向こうから勝手に表現してくるような感じがあって。それを素直に面白がっていました。

──それは自己表現というより、風景の側にある力を受け止めようとする態度にも思えます。世界がこちらの手を介さずに表現している瞬間を、そのまま目撃する。それこそがあなたの「見ること」の倫理と言えるのかもしれません。

たしかに、自分が意味を与えるというよりは、もうそこにあるものを受け止める感覚です。自分の意図的な行為は「見る」という行為が大部分を占めています。それが原因かまだ分かっていませんが、「見る」という行為そのものを考える時間が自然と増えていきました。これから先の作品のことは決まっていないですが、確かにそこにある“何か”を、どう撮れるだろう、どう残せるだろうという気持ちでいます。

──鳥の影が水面に映った作品がありますね。撮影時の状況はどうでしたか?

鳥が水面に偶然写り込んだんです。そのエリアは海鳥が多く生息しています。水面の揺らぎに惹かれ撮影していました。ファインダーの中に写っているイメージは現実の水面と、非現実的な水面の歪みの像、2つだけです。集中して撮影していると、現実的か非現実的かわからなくなるような感覚になるのです。そんな中で、頭上を海鳥が偶然、横切って、水面には鳥の影が写りました。自分の意図では決められない何かが写真に写り込んだことで、ファインダーを覗きながら、このイメージは「現実だ」と感じたんです。偶然が入り込むことで、作品がより生々しくなった感覚がありました。

少し分かりずらい話だと思うので丁寧に伝えるとすると、写真を撮影する行為は撮りたいものを決め、構図を探し、シャッターを切るというのは誰もがやる基本的な作業です。今の時代は、大勢の方がスマートフォンに搭載されているカメラを使用して行っていると思います。そして、その作業は撮影者の意思や意図のもとで行われています。

それは私が、水面を撮影しているときも同様で、撮りたい構図を決めてシャッターを切るのは自分の意図のもとにあります。ですが、撮影中に鳥が上空を横切り、カメラのファインダーの中で瞬時に、鳥の影として認識し撮影できました。それは偶然、鳥の影が映った水面を撮影できた瞬間です。この偶然性も「Sky」という作品には重要なポイントだと考えています。

もし鳥が映り込んでいなかったら、この作品は世に出さなかったかもしれません。自分の意図で完結しないものを受け入れることで、新しいリアリティが生まれる感覚がありました。

──作品に「偶然が宿った」とも言えます。その「偶然を受け入れる」という態度は、過去の仕事の経験ともつながっているんでしょうか。自分の思う通りにしたい気持ちと、思い通りにならないものを受け入れる気持ち。そのバランスをずっと探ってきたようにも感じます。

そうですね。過去の仕事の経験においても、やっぱりコントロールしている部分と、予期しないものを受け入れる部分がありました。自分だけで完結してしまう世界には限界があって、偶然が入ることで豊かさが生まれる。それは作品でも同じだと思います。予期しないものをどう受け止めるかで、例えそれが小さな要素であっても、視線や作品が変わってくる気がします。

作品においては、偶然性や自分の予想を超えた何かが加わることで、現実だという証拠のようなものや本質的な何かが生まれるような気もしています。

こうやって話していると気がついたのですが、水面や鏡をモチーフとして採用したのも偶然かもしれません。偶然、自宅近くに大きな水路や川があった。東京の自宅から歩ける範囲という限定を自分の意思で決めたのですが、東京といっても環境は様々です。その中にある観察対象物は偶然そこにあったともいえますね。

──身体の一部が偶然写り込むことも、その「偶然を受け入れる」姿勢のひとつかもしれません。それは恥ずかしさも含めて、自分のコントロールを超えたリアルを作品に含めるということ。「自分が写ってしまった」という異物性を消さずに残す態度にも、偶然を歓迎する感覚が現れているように思います。

ええ、自分自身や自分の汗が映り込んだ作品もありますが、最初はやっぱり恥ずかしさが大きいんです。でもそれを消したくない気持ちもありました。自分の意思だけで決めた構図ではなく、そこに勝手に入ってしまうもの。それも含めて写真だし、現実だと思っています。確かに言われてみると、偶然性を受け入れる態度は、そういうところにも出ているのかもしれません。

──最後に、今後の制作では、どんな方向や可能性を考えていますか? 水面や反射というモチーフに留まらず、どんな広がりをイメージしていますか?

私の写真作品は、制限を設けることで偶然を捉え、そこから生まれる問いや視点を大切にするところから始まっています。それと同時に、自分自身の作品制作に対する態度や思考も揺らぎながら変化していっているように感じています。

今後、水面や鏡といったモチーフから離れることもあるかもしれませんが、「揺らぎ」や「偶発性」という感覚を起点にしながら、まだ知らない世界を探る視線を保ち続けたいと考えています。モチーフや手法にとらわれず、様々な素材や方法を試しながら表現の可能性を広げていくつもりです。

2025年7月14日 東京にて
菅原洋介

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