Artist Self Interview Vol.3 – Resonance and Distance: On Photography and My Place in Art History
「見ること」を問い直す—セザンヌ、ブラック、ピカソ、ホックニー、そして写真というメディアへの私の距離感
Vol.1と2では、自分自身の内面にある、言葉になる前の感覚の断片を、手探りで拾い集めてきました。それは、自分の表現の『源泉』がどこにあるのかを探る、記憶を遡る旅でした。
少しだけ輪郭が見えてきた今、次に問うべきは、その表現が、より大きな歴史の文脈の中で、どこに立つことができるのか、ということです。このVol.3は、偉大な先人たちの思考と自身の現在地を重ね合わせ、その『距離』を測ってみようとする、新たな試みです。
実は、最初から「写真家になりたい」と思っていたわけではありません。「創りたい」というより、どちらかというと「見て考えること」が好きだった気がします。写真を本格的に使うようになったのは、大人になってからです。でも、学生時代に書籍を通して知ったデイヴィッド・ホックニーの写真コラージュ作品は、すごく印象に残っていました。
ホックニーの作品を初めて見たとき、写真なのに時間がずれていたり、視点が分解されていたりすることに驚きました。写真って「現実をそのまま切り取るもの」だと思っていた自分の感覚を、一度壊されたような気がしたんです。あれは大きなきっかけでした。
そうなんです。ホックニー自身もピカソの影響を公言していて、キュビスム的な多視点を写真でどう扱えるかをずっと探っていたんだと思います。 ポール・セザンヌから始まりパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックが徹底したように、それまで絵画の遠近法が当たり前に『正しい』とされていたものはバラバラに分解され、視点を同時に見せることが可能になりました。写真も同じように「正しい再現」から自由になれるんだ、って気づかされました。
でも、自分の場合はホックニーのように「分解して組み直す」という方向には行かなかったんです。むしろ「操作せずに、起こるものを受け取る」という方向に進んできた気がします。ここが自分でも面白いところだと思っています。
ええ。ホックニーから学んだのは、写真というメディアを「当たり前」だと思わないことだったんだと思います。「現実を切り取る記録」という写真の性質を、一度分解してみる。自分はそこから、じゃあ「写真とは何を見せるのか」「どこまでコントロールできるのか?できないのか?」を考えはじめました。
私の作品には、当然フレーミングや選択といった意図もあります。撮影者が構図を決め、光を読んで、シャッターを押すという操作は避けられません。でも、それだけで完結するのが嫌なんです。自分の意思を超えた偶然性が入り込むことで、豊かになると思える。自分で完全に設計したイメージではなく、予想外の要素が生々しさを与えてくれる。そこを受け入れる態度が、自分にとって大事なことだと感じています。
そう思います。結局のところ、「写真とは何か」「見るとはどういうことか」を考えずにはいられないんだと思います。写真は便利だし、自分の記憶を保存してくれるし、現実を記録する力も強い。でも同時に、すごく嘘っぽくもある。記録しているようで、実は撮影者が見せたいものしか写っていない。ドキュメンタリーのようで、実は矛盾も内方している。それは構図やタイミングを決める操作によるし、見る側の想像力にも左右されます。
フレーミングによって現実の一部を意図的に切り取っていること、美しい光を選んで撮影することで現実を美化していることなど、撮影者が通常行っている、行為自体が間違っているという批判的な考えではありません。でも、写真というメディアがそもそも持っている、「真実のように見えて、現実そのもののように伝わっていく」という性質に対して、ある種の怖さや嘘っぽさを感じています。その性質に対して批評的に考える姿勢、嘘が前提にあるということを忘れないことが、誠実さに繋がっていくと思います。
そして、それを経験的に知っているから、「ただ記録する」「ただ構成する」ことにも少しの抵抗があります。私にとっては、操作と偶然がせめぎあうバランスを大事にし受け入れていく事がが、写真というメディアと向き合う私の独特な態度だと思っています。
はい。もちろん意図は大事ですし、構図や撮影のタイミングを探るのは撮影者にとって重要な行為です。でも、偶然が入り込むことで、自分が想像しきれないものが写る。自分が作ろうと思っていたイメージに、ひとつの「ノイズ」が入る。それを「失敗」とは思わず、むしろ受け入れていく。そこに写真の面白さがあると思っています。
はい。あの作品は、まさに「操作と偶然」というテーマを、カメラとは全く違うアプローチで探求したものです。なぜスキャナーを選んだかというと、そこには『意識的な構図決定から逃れたい』という強い思いがありました。
通常の写真撮影では、私たちは決してカメラのレンズに触れませんよね。被写体とレンズの間には、必ず「視点」としての距離が存在します。でも、スキャナーの場合は、モチーフをスキャン面に直接『接触』させることができる。この、通常の撮影方法ではありえない身体的な接触に、偶然性を最大限に引き出す新しいアプローチの可能性を感じたんです。実験的な試みでした。
あの作品では、指先や鉛筆は、被写体として「見られている」のではありません。スキャナーの光がガラス面をなぞっていく過程で、私のわずかな動きや圧力が、像を歪ませ、引き伸ばし、分離させる。それは、レンズを通して世界を見るのではなく、『触れてしまった』ことによって偶然生まれる、触覚的な痕跡なんです。
結果として現れる像は、多視点的でありながら、どこにも中心となる「視点」が存在しない。まさに、タイトルにある『視点の消失』の瞬間です。正確な像を記録するためのスキャナーという「制度」の中に、ささやかな身体的な接触が滑り込むことで、意図された構図や像ではなく、『視覚の秩序がわずかに緩む瞬間』、つまり「裂け目」のようなものが現れる。その瞬間が記録されました。
私が現在制作している作品は、「答え」や「物語」を提示するものではない、という点。アーティストによって完璧にコントロールされたイメージは、鑑賞者に「美しい風景です」「悲しい場面です」といった解釈を半ば強制しますが、自分の作品はそうではない、と考えています。鑑賞者自身の「見る」という行為を問い直す、ひとつの「装置」として機能する可能性があれば嬉しいですね。鑑賞者が自身の経験や思考を重ね合わせることで、作品の意味が変化していくような、揺らぎを持つ作品であってもいいとも考えています。
自分ではまだ模索中の部分も多いですし、言葉にしきれないこともあります。でも「見る」という行為をもう一度考えたい、写真というメディアの当たり前を揺さぶりたいという気持ちはずっとあります。美術史に接続させようとする挑戦が自分の作品を作る動機のひとつになっています。
写真というメディアを使うことで、偶然と意図の境界線、現実と像のあいだに生まれるものを、そのまま受け止めてみたい。それが、今の自分の立ち位置だと思っています。
2025年7月16日 東京にて
菅原洋介