手作業の感覚
今日、過去に撮影した写真データを見直していたら、特に記憶に残っていない写真があった。実験的に撮影して没にした、僕の手元が写り込んだ何気ない一枚。その写真に何故か惹かれて、ふと手作業について考えてみました。
最近の朝ごはんは蒸し野菜を作って食べるようにしています。人参や茄子、ブロッコリー等。包丁を入れるとき、指先はかすかな緊張を感じてはいますが、どちらかというと切った時の心地よさ、まな板からの反動を感じています。料理という作業は常に手を使って行われますが、私たちの手は器用にその役割を変えます。包丁を握るときは力強い柄になり、繊細に塩をつまむときは精密なピンセットになり、白米を研ぐ時は大きなマドラーのような役割を担ってくれます。触る相手の固さや形に合わせて、手は瞬時にカタチを変え、器用に動いていきます。
パソコンを使って仕事をしている人なら共感してもらえるかもしれませんが、個人的にはマウスは苦手です。キーボードをタイピングしている感覚は好きです。10本の指がそれぞれのキーの凹凸を捉えて、指の動きが少しだけ複雑で、キーを押し下げたときにはカチッという底打ちの反動が指先に返ってきます。まな板に感じる反動の心地よさに似ています。マウスは手の動作が単純で、退屈な感じがします。
カメラの話をすると、昔のフィルムカメラはシャッターを切った時にカメラから反動がきていました。ミラーショックといって、写真のブレの原因になるくらい反動が大きかったカメラもあります。ミラーが跳ね上がる確かな振動と重みが返ってきた感触が、懐かしくもあります。いまはスマートフォンで撮ることが多くなり、反動はありません。電子音がシャッターがわりになっています。デジタル一眼レフカメラも、センサー上でシャッターを切るローリングシャッター方式が主流になりはじめ、カメラから反動がなくなりつつあります。
デジタル化があらゆるカテゴリーで進んでいるなかで、意識してアナログを求めているわけではありません。でも私たちはどこかで、物質と触れ合ったときの確かな手応えを求めているのかもしれません。料理もパソコンも、普段はこんなこと考えないで無意識に作業を進めていますが、スマートフォンを考えると、何をするにも滑らかで、効率的で、摩擦のないデジタルな世界。それはとても便利だけれど、指先から反動が消えていくにつれて、私たちの実感までがどこか置き去りにされていくような、不思議な物足りなさも残ります。人参を切る時のまな板の音、キーボードを打つ時の感覚、かつてのカメラのミラーショック。そうしたささやかな抵抗や振動こそが、私たちが今、ここで確かに何かに触れているという実感を支えてくれていたのだと思う。
便利さの波の中で、いつの間にかするりと通り過ぎてしまう、手元のささやかな摩擦。何にでもなれるはずのこの手が、物質に触れ、形を変え、反動を受け止める。そんな手作業の感覚を、無意識に求め続けている気がしています。