光の寿命
今日は2026年7月23日(木曜日)。今朝、長年ベランダで愛用していたビーチサンダルが壊れました。予兆もなく急にです。ベランダで風雨や紫外線に曝され続けたサンダルは、分子レベルでは毎日少しずつ劣化していたはずです。新しいものを買わないといけません。気がつけば、もう今年で50歳をむかえました。残りの人生が見え始める頃です。寿命というと、まず電球が頭に浮かびます。
例えばLED電球などで、パッケージには「定格寿命40,000時間」といった数値が具体的に明記されていることが主流です。工業製品として存在する以上、いかなる製品にも明確な終わりが存在しています。もちろん、その数値は大量生産品における実験に基づいた平均的な数値に過ぎず、購入した電球がいつその役目を終えるかを正確に予告するものではありません。
私たちはかつて、火がないと生活ができませんでした。照明から料理まで、火は生活の中心にありました。火には「定格寿命」という概念はありませんが、薪や油がある限り燃え、燃やすものがなくなれば消えていきます。火も電球もどちらも永遠に光り続けることはありません。
最近夜の東京を撮影し続けています。写真撮影に必要なものはまずは光です。光が0の世界がもし存在したら、撮影しても真っ黒なイメージしか撮影できません。月明かりに加え、商業地区のサインやお店からの光、ビルや住宅の窓明かり、街灯、信号機。東京は夜になっても光で溢れていて、夜でも撮影可能です。
街の光では足りない時に、暗闇を一瞬だけ照らしてくれるカメラのストロボを使用しています。数千分の一秒という光を放ち、目の前を明るくしてくれます。瞬時に消えていくその光は、放たれたと同時に終わりを迎えます。使われている発光管には「発光回数」という明確な寿命が存在します。シャッターを切り、ストロボが光るたび、それは自らの寿命を確実にひとつ消化しています。
写真は光と影を一瞬で記録するように感じますが、厳密には点としての瞬間ではありません。シャッタースピードが1/125秒なら、その1/125秒という時間が写っています。どんなに短くても、幅を持った時間が写っているのです。
夜の東京を撮影し始めてから、少しだけ意識の向かう先が変わっていきました。シャッターが捉える1/125秒という時間の幅の、さらに外側。目の前で今まさにその寿命を減らし続けている「光が持つ、そのものの時間」。終わりに向かって明滅する人工の光、そして寿命を削りながら光るストロボ。
なぜ夜の街を撮りたいのか、自分でもよく分かりません。もしかすると、自分の寿命を意識し始めたことと、どこかで関係があるのかもしれません。